土牛さん

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 佐久穂町(旧八千穂村)が誇る文化施設のひとつが、「奥村土牛記念美術館」(写真)。
「おくむらどぎゅう」と読まれることが多いが、ただしくは濁らず「おくむらとぎゅう」。地元では 「土牛さん」の名で親しまれている。観光客が「奥村土牛美術館に行ってきました」というと「ああ、土牛さん。どうでした?」といった具合だ。
 じつは今年、その奥村土牛の生誕120年、美術館の開館20周年に当たるんですね。
 奥村土牛は1889年(明治21年)東京は京橋生まれ。16歳のとき、日本画家の梶田半古塾に入門、後に塾頭となる小林古径に師事。28歳のとき、父親の経営する書店から「スケッチそのおりおり」を出版、このときから土牛の号を名乗る。丑年生まれということから、父親が中国の寒山の詩のなかの「土牛耕石田(土牛石田を耕す)」から命名したという。昭和2年「胡瓜畑」が院展初入選。昭和11年「鴨」が帝展で推奨第1位。昭和37年、文化勲章授章。平成2年、101歳7カ月で永眠。生涯現役で、死ぬまで絵筆をとりつづけた……というのが奥村土牛の大まかなプロフィールです。
 晩年、「日本画壇の最高峰」といわれた奥村土牛ですが、絵描きとしては大器晩成でした。画集「奥村土牛」(文芸春秋)のなかで谷川徹三は、「昭和3年『雨趣』、4年『蓮』、5年『軍鶏』、6年『鴉』で院展に連続入選、7年日本美術院同人に推され、その年の『菖蒲』は広く注目を浴びたが、画壇の花形たるにはほど遠かった。(奥村土牛ほど)もてやはされることの遅かった人は、明治・大正・昭和の画壇の巨匠に殆ど例がない」と書いています。
 その理由としては「日常身辺に目を向け、その結果、余りにも庶民的な作風となったから」といい、その結果として「新古典主義が主流であった日本画壇で長く苦しまねばならなかった」。
 しかし、谷川はこうも書いています。「(奥村土牛は)世に出ることなどあまり気にしない生き方であった」。じっさい、土牛本人もそうしたことで苦しんだ様子はまったく見受けられません。とにかく写生が大好きなひとで、「私は写生をしているときが一番楽しい。それは無我となり、対象に陶酔できるからである」。写生をしていれば幸せというひとだったんですね。
 また、土牛の絵は、ほかの日本画とはちょっと変わった、「不思議な絵」(本人)だったようです。「(私の絵は)できあがりはなめたようになめらかで美しいのですが、途中はすごくきたないですね。だから私の絵は途中で人に見せられないんです。日本画のいわゆる決まった描き方でないものですから」(同)。薄い色を何日も何十日も重ねて塗るような手法で、これは若いころに傾倒したセザンヌの影響なのだという。こうしたいわば日本画の本流ではないことも、土牛が「花形たるにはほど遠かった」理由ではないかと谷川は書いています。
 エー、さて、奥村土牛の美術館がなぜ佐久穂町にあるかといいますと、戦中から戦後にかけておとなりの臼田町(田河水泡の出身地)と、穂積村(現佐久穂町)に疎開していたからなんですね。そのあたりのことが自伝の「牛のあゆみ」に書かれています。当時の様子がよく伝わってくる文章なので、ちょっと長くなりますけどそのまま引用します。

 家内や子供たちは、これより(母の死---私注)前の十九年に長野県南佐久郡臼田町に疎開させていた。私は美校での授業もあり、東京を離れないでいたのであった。母にも再三、疎開を勧めたのだが、どうしても東京を離れるのはいやだと言って、ついに母と私と妹と長男とが東京に残っていたのであった。しかし、五月二十五日大空襲があって、渋谷から赤坂見附まで、ほとんどが焼けてしまった。私の家も焼かれ、私もとうとう疎開せねばならないことになった。 
 疎開先の長野県南佐久郡臼田町でも、次第に周囲が気ぜわしい空気になって行くのが肌身に感ぜられた。人との行き来はほとんどなかった。田舎でも物資がひどく少なくなり、特に食べ物はなかなか大変であった。そんな中で、四月には四男の勝之が生まれた。栄養が十分とれず、私たちはいくらでも我慢のしようがあったが、小さな子どもたちや赤ん坊はかわいそうであった。この勝之などは生まれてから少しも太らず、たまに来る人は「まるでサルの子だ」などと笑っていくほどであった。ついでに触れておくと、十六年に三女の由起子が生まれていて、子供は四男三女の七人になっていた。
 八月十五日の正午に陛下の重要な玉音放送があるとの知らせに、私は六畳にいろんなものが置いてある狭い部屋で、袴をつけて家内と共にラジオの前に正座した。田舎のことでラジオの音が悪く、お言葉はとぎれがちであった。しかし聞くうちに、次第次第に悲しく胸がせまってくるのだった。その夜はついに眠れなかった。眠れぬまま夜中に庭に出ると、月が皓々と照っていて、信濃の山々が薄墨色に煙っていた。静かで心の底から寂しかったけれど、昨日まで厳しく見えた山が、なぜだかこの夜は穏やかに見えるのだった。
 戦争が終わっても、たまに東京に出ていくだけで、ほとんど佐久にとどまっていた。東京は、全く様子が変わってしまって、どこに行っても驚くほどの荒廃ぶりであったが、田舎の自然には変わりがなく心が休まった。十一月になって、東京の三越で美術院の同人展が開催された。小品展ではあったが、混乱して落ち着かない周囲の中にあって会場の中は強い印象を受けるほど静かで清らかであった。ほんとうに久しぶりに、そういう空気にひたる思いであった。
 翌二十一年になっても、私はしばらく佐久で静養を続けることにした。戦争の間の緊張やらいろいろな疲れがたまって、少し静かに落ち着きたいと思ったのである。疲れを休めながら、ぼつぼつと写生の方にも身を入れ始めた。写生の対象は、周囲にいくらでもあるといってもよかった。家の庭に下りると、目の前に八ヶ岳がそびえ、その手前に千曲川が流れていた。右を見れば浅間山が煙を吐いていた。空気は澄み切っていて、浅間山のふもとの、遠くの村々まではっきりと見えるのであった。
 そして二十一年の佐久の春は見事であった。四月の末から五月にかけて、梅も桃も桜も、一時に咲くのである。牡丹も、この時に咲く。山々の雪も、にわかに薄くなって、いかにも山国に一度に春が来たという情緒であった。
 この年の秋の院展には「雪の山」を出品した。少し遠出して、菅平の近くで写生した雪山の風景であった。この年も前に引き続いて日展の審査をおおせつかったが、私は出品が院展とつづいていたためについに間に合わず、申し訳のないことになってしまったのだった。
 翌二十二年、文部省から日本芸術院会員に推薦するという通知を受け取った。しかしそのころ、日本美術院の同人には私より先輩の人がたくさんいて後輩の私が芸術院に入るのは、どうしても気が引けた。私は、どうしたらよいのかわからなくなり、横山大観先生に伺ってみることにした。東京に出て、先生がちょうど伊豆山のお住まいから築地の旅館においでになっているところを伺った。お目にかかって、その旨を申し上げると、「芸術院に先輩も後輩もない、受けよ」というお言葉であった。しかし、先輩は人としてどこまでも尊敬しなくてはいけないよとも言われた。私はありがたいと同時に、何か責任を感じたのである。
 昭和二十二年の晩秋、南佐久郡の臼田町から穂積村に移った。同じ国鉄・小海線の臼田から二駅目のところである。東京に帰りたくとも、赤坂の借家は焼かれていて帰るべき家はなかった。しかし一方で、この土地の美しい風景に未練があって、ここに永く居付きたいという気持ちがあったこともたしかであった。
 臼田には結局、まる三年いたことになった。土地で手広く製材業を営んでる美術好きの浅沼さんという方にお世話になっていたわけであったが、こんどの穂積もやはり美術好きの黒沢さんのお世話であった。黒沢さんは醸造業を営む土地の旧家で、一族の会議用の会舘を持っていて、その一隅を拝借したのであった。
 あのあたりは、なんとしても清らかで美しかった。小海線の小淵沢までの間の、松原湖、海ノ口温泉、蕎麦で有名な川上、野辺山、そして清里など、よく、散歩と写生を兼ねて出かけたものであった。野辺山や清里の近くなど、駅を降りるとすぐそこの道端に高山植物や野花が咲いていた。私はあの辺で見た竜胆の花のみずみずしい紫の色などが、今なお忘れられない。
 しかし、冬の間の寒さはひとしおだった。寒中は零下十八度まで下がることもあり、画絹(絹本の画布)に刷毛で水を引くと、見ている前でばりばりと凍り、寒中は絵はとても無理であった。またふろから上がって、すぐ隣の部屋に行くまでに、下げている手ぬぐいが棒のようになるのだった。だがこんな寒さの中で、しかも栄養が行き届かぬ終戦直後の時世で、風邪一つひかないのであった。注意深く暮らしていたということもあるが、やはり気持ちの張りが今とはちがっていたのであろうか。

 土牛一家が穂積村に疎開していたのは、昭和22年から26年までの4年間。黒沢合名会社社屋の離れに住んでいました(この建物は昭和60年に村に寄付され、平成2年、土牛の希望を受けて「奥村土牛記念美術館」として開館。その際、素描画百数点が寄贈されました)。
 文中、「美校での授業もあり」とありますが、当時、土牛は東京芸術大学の講師として日本画を教えていました。当時の学生の話によると、土牛に絵を見てもらうと、土牛はジーッと見ているだけで何もいわないんだそうです。「でも、先生がだまって見ていらっしゃるそばでいっしょに自分の絵を見ていると、自分の絵の欠点がだんだんとわかってくるんです」(「百寿記念 奥村土牛展」から)。
 また、「寒中零下十八度まで下がることもあり」と書いていますが、いまはさすがにそこまでは下がりません。でも、この一帯が超(?)寒冷地であることはたしか。わたくしたちも東京から移住して3年になりますが、最初はやはりここの寒さにはふるえました。とくにわたくしのところは標高1200メートルちょっとの高地にあるため、厳冬期になると零下10〜15度くらいになるのはしょっちゅう(といっても未明ですが)。近くにある池などはもうカチンカチンに凍ります。おそらく象が三十頭くらい乗ってバケツリレーをしても割れないくらいの分厚い氷が張っていると思われます。ですから、移住1年目の冬、わたくしは友人へのメールによくこう書いたものでした。「あと数年ここで暮らしたら、おそらくわたしはアザラシの生肉を常食にしていると思います」。
 すいません、わき道にそれました。
 終戦の日の夜、ひとり庭にでて遠くの山並みを見る土牛さんの姿は胸に迫ってきますね。
 ま、しかし、日本画壇の最高峰なんておとうさんが家にいたら毎日たいへんだろうなと心配になりますが、意外とそうでもなく、旧穂積村生まれの四男勝之氏が書いた「相続税が払えない」(土牛の死後、相続税を少なくするために土牛の素描を燃やしたという聞くも涙のお話)によると、土牛は「ふつうの父親」であり、家族に完成した絵を見せ、感想をもとめることがたびたびあり、「家族が忌憚のない意見を言うと、迷った末に手を加えることもあった」そうです。
「鳴門」(鳴門のうず潮を描いた大作)を描いたときも、仕上げの段階になって土牛が感想を聞くので、土牛といっしょに鳴門の渦を見た母が「もっと濃い色でしたよ」といったり、当時中学生の勝之氏が「この渦、なんだか生クリームみたいだね」というと、土牛は「そうか」と腕組みして、その後何日も絵の前に座っていたのだそうです。巨匠でも家族の意見を聞いて悩むことがあるんだと思うとなんとも微笑ましく、いかにも日常身辺なものに目を向け、庶民的な作風だった土牛さんらしいエピソードです。
 奥村土牛記念美術館では収蔵された素描画百数点のうち四十数点が常時公開されています。どれも素朴で軽い筆致ですが、土牛さんの対象に対するあたたかい眼差しが感じられる、清らかな作品ばかりです。そう、土牛さんがこの土地にいだいた気持ちのように。(2009年9月14日記す)